cojuの、無添加な毎日。

無添加なものと、幼い私を振り返る。

自分責めをやめる訓練。

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

 

最近始めたことは、自己受容の練習です。

1日の中で、罪悪感にかられることを思い出し、日記に書いています。

それを否定することなく、そのまま受け入れます。

例えば、自分より暮らしぶりの良さそうな人が食料を買い込んでいる姿をテレビで見て、どうせ私は節約しかできない、どうせ好きなものがあっても我慢するしかない…。

と思ってしまったとします。(実際よくあるんだけど)

それをノートに書き、その下にこう書きます。

「あなたよりリッチな人が好きなものを躊躇いなく買っているのを見て、羨ましくなったんだね。羨ましいと思う気持ち、OKだよ。毎日我慢してるから、たまには贅沢したいよね。贅沢してもいいんだよ。一度は値段を見ずに好きなものをカゴに入れてみたいよね。一度くらいやってみなよ。節約できるのはすごいスキルだけど、つらい時もあるよね。辛いと思うこともOKだよ。」

注意したいことは、お説教を始めないこと。

このケースだと、そもそもテレビで見た人が本当にリッチか分からないし、自分じゃなく家族が食べたいものを買ってる可能性もありますよね。

だから、「この人がリッチかどうか分からないよね。」とか「みんな大変なんだよ。」とか諭すような文を入れていた時もありました。

しかし、それをやっていくと気分が悪くなったんです。結局私の考えは間違っているのか、結局叱られなくてはならないのか…と卑屈に逆戻り。

正しく生きることをモットーにしてきた人ほど、自分を正さないことは苦しい作業かもしれません。が、歪んでいる自分も自分だと、まるっと受け入れる練習なんです。

人間は背骨にいくつもの節がありますよね。あれによって、体は柳のように揺れて重たい頭を支えています。その方がポッキリ折れるようなことが少ないのだそうです。ですから、心も普段から小さく揺れ動いていても良いんじゃぁないでしょうか。真っすぐさは本当に美しいですが、いつもそうだと疲れてしまう気がします。

 

私は昔から自分を責めすぎる所があり、人から叱られることに耐えられません。

学校や会社で叱られると、この世の終わりかのように感じ、恥ずかしくて二度とその場に居たくなくなります。

叱られることには慣れています。でも、誰に叱られても後が悪いんですよねぇ。すぐ泣く自分をコントロールできなくて、振り回されていました。

30代にして、ようやくそんな自分と向き合うことができています。

多分ですが、幼少期に自分の価値が否定された経験があって、そのせいで「私は何をやってもうまくいかない」という思い込みがあるのでしょう。叱られると、「やっぱりそうだ」ということになりますが、泣くってことは心底では納得がいってないんでしょうね。

そんな私なので、なるべく叱られないようにと、良い人であることを心掛けてきました。そのうち、どの自分が本当の私なのか分からなくなっていきました。

成績が悪くて、友達が一人もいなくて、家の外に出られなくて、打ち込める趣味もなく、家事もままならない。もし自分がそうだったとしてもOKだし、愛されている。そのことを分かるようになれば、心にほどよい隙間ができるんじゃないかなって思います。

長くなりましたが、そんな自分を受け入れるために、自分責めをやめるために、自己受容の日記をつけているっていうお話でした。

読んでくれてありがとーーー!!